考える5月

自宅滞在型ゴールデンウイーク終了。


東京から長女KIKI、一泊二日で帰省。

りきまるの写真とってくれました。

なかなかいいかんじ。


端午の節句を祝った
食事をたのしむ時間を得て
ほっこりとしたひととき。


けれど

ながーいこと
本当にながーいこと
ずっと
「どうして一日三食なのかしら」
「どうして一汁三菜なのかしら」
「どうしてご飯が主食と呼ばれるのかしら」

という
基本のきの字への疑問が
どんどん大きくなって


まあ
一汁三菜は
膳のスペース上の結果としても・・・・




ご飯を中心にした食事のあり方、


なにか大きな「おもい込み」とか
「仕掛け」とか
あったのじゃないかしら・・と。


ご飯のおかず、と思えば
料理の味付けは必要以上に濃くなる。


いつだって
「ごはんのおかず」という意識から逃れられない。


主食という概念は日本にしかないのに。



日本以外で食事にパンを食べるのは
まずパンの「おかず」に料理するわけではないわけで・・・



日本人にとっての
「ごはん」の不思議、
本気で考えています。



無類のご飯好きですが

あれこれ考えているうちに
どんどん食べる量が減ってきています。
そしておかずの味付けが薄くなってきた。


ワインとチーズと野菜がある時は
不足しているものが特になければ
ご飯はもちろんいらない。
食べない。


「〆めのご飯」という意識から解放されると
意外なほどカラダが軽くなる気分。
無駄もなくなる気がしてきます。



ちょっと時間をかけて考えたいテーマに遭遇しました。


ご飯はおいしい。
けれど
一日3食といっても

その時間の感覚の不合理性、だれか説明してくれているのでしょうか。

朝7時に朝ご飯だとして
12時に昼ご飯。
この間5時間。
晩ご飯は
19時だとして
この間は6時間。
翌朝のご飯がまた7時なら
その間は
11時間。


3度食べる必要があった時は3度食べればよかった。
その必要がなければ
一日に食べる必要量でよいのではないでしょうか。
体内リズムを守る上で、
定期的な摂取が必要だとして
その時間は人によって違ってだめなのでしょうか・・・



どこか義務的に食べる時代になっているような気がして
それからずれる生活に不安や罪悪感が生まれているようで
奇妙な気分が続いています。



「豊かさ」をキーワードとしてきた時代が長すぎて
いろんなことがマヒしてきてはいないか


多様性が言われながら
多様性は常に批判の的。
それが食生活ではないかと。



さて本日の美味しいモノは


京都「よねむら」のクッキー。

個性的な缶の柄。上は缶の蓋。

そして
個性的な味。

とにかく驚く味。

薄いチーズクッキーは
ちびちび食べなければその塩分に驚くほどですが
七味唐辛子味の一枚も、ひえーっと驚くお味ですが


プロが作ったプロの味。
そして組み合わせの絶妙さ。


クッキーって
素人さんがちゃっかりプロに近づけてしまう領域。

所詮、同じ材料ですから。


だからこそ
個性が必要。
絶対的な経験とテクニックが必要で
消費者に伝わる。



泉屋のクッキーが
懐かしさをキープしてくれているように
この「よねむら」のクッキーも
絶対にいい。


味の濃さと
価格に驚きますが
バタバタと食べてしまうクッキーではなく
味のわかるお客様に
ひとつおすすめできるお品。

ワインにも
珈琲にも日本茶にも抹茶にも。



さてさて
夏までは一直線に仕事するだけです。
北国の短い初夏を謳歌しようと思います。