誕生日

どんなによごれていても
だれにもブラッシングしてもらえなくても
痩せても枯れても
スタンダードプードルの
りきまるくん、

5月3日、
6歳になりました。



北国に春。

桜満開。


万歳!



友あり。
たかが犬の誕生日に
馳せ参じてくれる
うれしい友あり。



まあ
犬の誕生日にかこつけて
やっと見つけた貴重な時間に
一杯飲もう・・・という



りきまるさんを可愛がってくれている
普段は大忙しの友達夫婦が二組

「りきまるさーん、おめでとうね!」


と来てくれました。


それぞれが
それぞれの領域で
日々仕事をし
いろんな困難苦難に出会い
迷い
憤り
家族をかかえ
時に心痛めたり乱したり
笑ったり泣いたり
感動したり
の繰り返し。



先日、しみじみと
「センセーはお幸せですよね!」と
若い仕事仲間に言われました。


「そんなことないよー」と答えながら


振り返れば
卒倒しそうな歴史
越えた事が信じられないほどの壁
今いることが不思議なほどの時代があり


この今とて


言葉にはできないいろいろなことはあるものの



それでも


今「在る」ことだけで
充分「幸せ」ということは確かです。


でもそれは


「センセー、お幸せですよね」

と言った彼女とて
同じです。


人は
「在る」ことだけで
充分に「幸せ」なのだと



あらら


還暦過ぎたら言う事違ってきちゃったかしら?



大昔ドイツ語の授業で
Sein(ザイン) という言葉を知ったとき、
「あ、これだ!」と思いました。


あるがままの姿、
ストレートな「存在」です。


こちらが好むかどうかではなく
とにかくそこにある、ここにあるということ、


それを受け止める。


そこからスタートする、その感覚は
迷いながら大学に進学した私には
実に新鮮な言葉でした。


ドイツ語じゃなかったかなあ
哲学の講義だったかもしれない。






そしてSollen(ゾレイン)。


こちらは
理想の姿
「あるべき姿」。



ゾレインを描くばかりでは
なにも楽しめない。




今思えば


センセー(私)に
妙な「元気」があるのは

そして
絶望すべき場面で
転びながらも小石握って立ち上がれてしまうのは


「ザイン」を「ザイン」として
楽しむ力があるからかもしれない・・と。


嘆いてもしかたがないことは嘆かない。

愚痴を言っても仕方がないことは言わない。


言った方がいい苦言は言ってしまう。


言ってもわからない相手にも言うだけは言う。


蹴られても仕方のない相手には堂々と蹴られる。
そして堂々と去る。



否定しようのない現実に「在る」自己を
謳歌すること


そして
ゾレンを遠くにみながら
歩くだけではないかと。




いやあ

猛烈に時間のない日曜日の朝なのに


日曜美術館
北斎の絵を横目で見ながら


この短時間に
「在る」なんてことを
語っちゃって


センセーは
今日も元気です。





相手が犬であっても


それに向かっているとき

自分の存在を強く意識できます。


犬であれ
植物であれ


なにかに向かって
感覚を研ぎすませるとき


人間は
形にならないエネルギーを得るから不思議です。



だから
芸術が必要なのだと思うのです。




生命科学の講義は
生命とはなにか、ということを
せっせと考える授業。


個々の事象を必死に覚えるだけでなく


分子の運動の集合体が
なぜ芸術に心震わせる存在なのか

動的に平衡状態を保つ
不可思議な分子の集合体が

なぜ
かくも多様なのか


なぜ複製し続けるのか


その仕組みを学ぶのが生命科学の基本ですが


その次にある

その「意味」は
絶対に答えはでないのですが


「おもしろいなあ!」と
思って考えてみること


それこそが

「おもしろい!」
のだということを
ただただ伝えたいと思っています。



桜咲き
マダムこおろぎ
超元気!




追伸
楽しいスパイスに出会いました。

これらは見本ですが
目下あれこれ試食中。
シンプルな料理推進を模索しながら
おすすめのいくつかを荒井商店でご紹介できたらいいな、と思っています。