美しいモノ ふたたび

北国に春はまだまだ遠く

豪雪との戦いです。

採点に次ぐ採点の日々も続き、

今年度が最後の授業内容の科目が

いままで以上に丁寧に
いままでにない方法で
授業を進めたつもりなのに


予想点数より30点ほど低い点数の続出。

それ以上低いかもしれません。


これは
指導者の責任かと
肩を落とすばかり。


もしかしたら
教えなかったのではないかと不安になりつつ採点を続けていると

ときどき
ほぼ完璧にできている学生もいて

ああ、やっぱり伝えてあった
教えてあったと確認。


しからば
なぜ

かくもできが悪いのか。


試験に出る範囲も明確で
出る箇所も伝えておいたのに
できない、ということは
何を意味するのか


当分悩まねばなりません。


残念なことに


福岡伸一さんの
生物と無生物のあいだ」をサブテキストに
生命を考える授業は
もう来年はできません。


本当に残念。

かつてない
悪い、否、悪すぎる、否
想像を絶する平均点を最後に結果として受け入れる無念さ。


時代のせいか
なんのせいか

大学教育の盲点も

もしかしたらあるのかもしれません。



これから評価です。


試験を受ける学生の何倍も

教師は頭を悩ませることを
学生も知ってほしいものです。


いやまあ


それほど悩んでいない教師もいるわけで


どっちもどっち・・・の現実かも。







さて閑話休題


美しい器です。



営業時間の短い荒井商店、
今年最初の店開き中です。


五輪釜さんの器。


3月の末、やっと窯に火が入ります。

個展で買うしか方法のない作品のため、

今回予約を受け付けることにしました。



「青い白」が実に美しく

削り取った土の跡が
なんともあたたかく。






五輪釜の五十地さんの作品には
安定感がありますが





伊賀焼き・・・の名品に
破袋
というお茶道具があります。


やぶれぶくろ
です。


美しく作った作品を
ぐしゃりとつぶした形が評価されている名品ですが



さて

思うのです。


わざとつぶしたのか
つぶれたのか


わざとつぶした・・・という見方のほうが主流だと思います。


でも

先日テレビで
医療機器を通して破袋の断面を透視したモノを見て


つぶしたのではなく
つぶれたのではないかと。


まあ
どちらでもよいのですが


本来は使えない「悪質」なモノが
美術品として評価されるプロセスは
実に興味深いものがあります。




美しいものとはなにか・・という

私の積年の疑問がむくむくとうずく、
そんな器なのです。





それとは別に
先日、
とある雑誌に実に「きたない」文字を見ました。
筆文字です。


いやな文字だなと思って作者を見たら
魯山人でした。


そしてその評価が

はみ出す勢い、とか
概念にとらわれない自由さ

など、評論家がべた褒め。



へえ・・・・と思うばかり。




美とはなんでしょうか。



美しさとはなんでしょうか。



私は
破袋は
安定感が好きですが
そして、上手に花をいけられそうな気がしますが


魯山人のその文字は
とても「いや」でした。



魯山人だからよいものに見えてしまうとしたら
それはどうなのか・・・とも。




真行草、の発想を軸に
今いろいろ考えています。



真をくずしながら草にたどりつくのはいい。


しかし
真を知らずに
あるいは
なんらかの理由で避けていきなり草を見せることがあるとしたら
その草は、早々に根の浅さが見えてしまうに違いありません。




「下手うま」的な文字や絵が
もてはやされて久しいのですが


その文化を
基本的に受け入れることができません。


下手でもいい・・はずはないからです。



あえて下手に書く、
あえて下手に描く・・


そんなことをする人もいて


不思議な文化が育ちつつあります。



誰にでも陽が当たるのはよいことですが



再度書いておこうと思います。


下手でもいい・・・はずはありません。



上手と下手なら上手のほうがいい。


上手な人がくずしてこそ

下手にも見える美、なのです。



字も絵も下手な私は
これから練習しようと思っています。



味があるとか
趣があるとか


そんなことは
美とは関係のないことです。


美には基本的にルールがあります。


そのルールの
周辺に
プラスアルファの
遊びが生まれるのであって


先に遊びがあって
美がついてくる、ということは断じてないと
思うのです。




「下手うま」文化が
国民総アーチスト化をうんでしまいそうで
少々怖い昨今です。




いいものがいい。



それだけです。



下手は下手なりに・・・


それもいいのです。


「下手なりに・・・」の自覚が間違うと
勘違いしたまま、偽アートとして流布して迷惑する。



魯山人は偉人に違いありません。


でも
その文字も
器も


私は騒々しすぎて身の近くには必要がありません。


チャップリンもそうです。

偉大な俳優にちがいありません。


でも
その映画はどれも

全く直視できないのです。



芸術も文化も
理解できないだけかもしれませんが



正直なところを書いておきます。



草間弥生さんの水玉作品は
一つ、手元にあったら
幸せな気分になれそうですけれどね。




春はまだ遠そうですが


こなかった春はありません。


解けなかった雪もなく


あたたかい春を待とうと思います。