考える1月

寒い日が続く。

当方、心も相当寒い。

きわめて元気だとはいえ、
さて周囲の同年代に元気がなく、
振り返れば
若い日の
あの情熱や競争心、向上心、覇気は
かくも簡単に失せるものかと



そして
それほど

人生、時の流れは早いのかと


寒々思うことが続く。



親になったのが遅いので
同年代の仲間の中では
特別子供の年齢が若いのも理由だろうが、


あれもこれも

まだやりたいことが山積み

いや

いまやっと
やりたいことが明確になったばかりだというのに


周囲との違いに
気持ちを削がれることが多い。



今日の写真とて


ホンモノの餅を手にして

どれほど興奮し、
楽しんだことか、

そして

つぎは
いつ、お餅を使おうか、
年末には餅つき大会をするぞと


大福3個で
こんなにワクワクしていることも


うがった見方の周囲には
お気軽な苦労のないオバさんにしか見えないのかもしれない。



確かに、
私が20代の頃、
30代の時、
40代の日々


60歳前後の先輩は

近寄るのがはばかられ、
恐くもあり、
多いに苦手だった。


それを思うと


ああ
私も
煙たい存在なんだとしたら


本当に不本意である。




外は吹雪。


予定をたてても
高齢の母やら
受験性やら
でっかい犬やら

あれやらこれやら予定外の私事雑事に加え
フリーランスの学者故の複雑な仕事やら
なにやら

思い通りに時間は使えない。


けれど


と思ってみる。


昔、苦手だった
あの大御所感満載のおばさんになる心配は無用かもしれない。


なぜなら


大御所、ではないからである。


私は、これから、どっさり学ぼうと思っている。

やっとその時間が探せそうになっている。


もし
私の知識や技術が役にたつのなら
どうぞ、若い人たちには使ってもらいたい。



その方法、しくみを
今年は作りたいと思う。


ただ
そのしくみ作りが楽ではない。
難産が予想されるが


生活文化塾

丁寧な作業を開始したい。



大学も
私に用意された場面は
しっかりと役割を果たすべく
いっそうテキスト作りに励もうと思う。


2009年の朝日新聞の切り抜きを見ていたら
「なぜ大学はタダでなければならないか」という記事があった。
白石嘉治氏による饒舌な論調の
半分も同感できなかったものの

彼が理想とするモノは充分すぎるほど理解できる。


古典「クレーヴの奥方」について
「こんなものを読んで何の役に立つのだ」という
サルコジ大統領の発言にタンを発した何年か前のフランス全土に広がった大学のストライキを例に

学問とはなにか、を力説しているのだが



ああ
白石さん
無理です。
日本では無理なのです。

そんなことして何の役に立つのかと

私はすでに40年言われ続けています。


かつては
こおろぎの研究。

医学を学べばそのままだれかの役にたつのに
こおろぎがなぜ鳴くか、それは誰の役にたつのか


浴衣の一枚も縫えたら
誰かの役に立つのに

なぜヒトは装うかという議論など
誰にも必要ない。



常に
役に立つかどうか


それも

直接目に見える形で
役に立つものに価値を置く


その視点では

学問など絶対に語れないのです。



大学入学と同時に就職の心配をする日本で

大学の役割は
就職斡旋の母体としての機能を捨てることはもうできず


悲しいかな
そのことに疑問を持つ現場の学生も
少ないのです。



始めから
何かの研究をしたいと志して入学する学生ももちろんいるとはいえ、


高度経済成長期に生きた人たちの孫たちは

バブル経済を経験した人たちの次の世代は


気の毒なことに
「役に立つ」ことに、とりわけ大きな価値を置くようになったのかもしれない。



役に立つコト、役に立つモノにだけ価値があるとしたら

諸種事由ゆえ、動きがままなならない人たちはどう解釈されるのか
何も生産できない人たちは、どう理解されるのか。


必要の無いものは捨てなさい


という

何でも捨てなさい、という昨今の思想に通じる
恐怖が
ここでも見え隠れするのだ。






これから大学を選ぶ次女の
様々な迷いをまぶしく見ながら


多いに迷いなさいと
私は思う。

誰かの役に立つことより

自分の興味を追いなさい
視野を広げなさい
荒野を歩きなさい・・・と思う。




青年が
本当に荒野をめざした
「あの時代」を
懐かしく思うばかりなのだ。


わが家の駄犬も
飽きずに懲りずに「獲物」を狙う努力を惜しまない。


努力は実ることもある。

手に入ったら、それだけでいい・・・

人生なんてそんなもんですと
犬に教えられる日々なのです。