遊ぶということ

女正月は1月15日で、ハツカ正月はまさに1月20日

餅花が作られるのは、地方によって異なるが
なんとしても
今回、実際に作りたかった。


作ることに意義があった。




短時間に簡単になんとか作れないものかと
いろんな粉類で試行錯誤を続けるも、
衣類も手もよごさずに作るのは無理と判断。


今回は
オリジナル粘土のアーティストO先生にお願いして
白とピンクの軽い粘土を ご用意いただいた。



予想通り、みなさんとても真剣に
これから芽吹く柳の小枝にアレンジ。


このプロセスに意味がある。





ロジェ カイヨワの遊びの定義には

アゴン (競争)

アレア (運)

ミミクリ (模擬)

イリンクス (眩暈)

の4種類あるが

さて
この模造餅花作りはどれにあてはまるか。

強いて言えば、模擬に値するのかと思うが、


大人の日常には
カイヨワがはかり知れなかった
もっと深い「あそび」があるような気がしている。


花を組み立てる・・・
あえてアレンジメントとか活ける、という表現はしたくない。


組み立てる、そのプロセスが
実に楽しいのだ。


これは
「あそび」だと
いつも思う。

今回、伊達町から馳せ参じてくださったSさんの帯は
おもちゃづくし。


彼女のキモノもおもちゃづくしの柄。


子供と博物館の関係等について研究する学者でもある彼女らしい選択。


なにかのとき
ふと
「そのこと」にちょっとだけこだわること
ちょっとだけ熱中してみること
ちょっとだけ無駄を楽しんでみること

これが大人の遊びだと思う。


それをするかしないか


大きな得、か、大きな損か

違いはとにかく大きい。


今回のテキストに書いたのだが


無駄、煩雑、不自由・・・それは文化の一部。

簡便、便利、合理性、楽、自由・・・これも文化の形ではあろうけれど


真逆の不自由さにこそ、深い意味がある。


こんなことどうでもいいのに・・・という、「そこ」を
見るか見ないか、やるかやらないか

人間の表情が生きるか、生きないか、の違いになる。
これまで生きて、断言できる。


無駄ができる人間のほうが
ずっと素敵だ。


なくてもいいものをおもしろがれる人のほうが
ずっと幸せそうだ。


どうでもいいことをやる人の方が
はるかに生き生きとしている。


というわけで

私はとうとう本気でキモノ研究に手を染め始めることにする。

どうでしょ、この帯。
師匠だった義母の帯も、今こうして、不肖の嫁が
楽しく日常に結んでいる。
天国で笑って見てくれているのではないだろうか。


暇など
だれにもない。


今回伊達から、おもちゃづくしの和装で駆けつけてくれた彼女とて
3歳のお子さんがいて、伊達から東大に通っている。


時間は作るものだということ
その知恵をなんとか探したい。

さ、美味しい珈琲の朝、
これから生命科学の講義の準備。
人間はどれほどおもしろいイキモノか
伝えるのが私の仕事だと思っている。

オランダのこんな個性的な一輪挿しに
餅花モドキを飾るのもまた
一興である。