新年の不思議

あけまして
おめでとうございます


すでに5日もたってしまった。
少々持病がうずうずして
気がついたら5日。


ホームページが新しくなった。

さらにこれから
内容も少しずつ、刷新の予定。

乞うご期待。


さてお正月
年々、「買う」おせち料理が華やかになっている。

2万円代なら安い・・という風潮には仰天。
3万
5万・・・などデパートの地下に並んでいて
本当に仰天。


あれもこれも簡略化してきた現代人なのに
おせち料理のお重箱はなぜ省略しないのだろうか。


面倒なら作らなければいい。
悪いことではない。


普段通りの食事でもいいはずなのに


だっておせち料理だから
だってお正月だから・・・



あれもこれも省略している現代人なのに
不思議。



おせち料理
作ることに意味があったのではなかったか
保存できる料理だから意味があったのではなかったか
それぞれに縁起かつぎの機能があったから意味があったのではなかったか


形骸化して
商品化したおせち料理のお重箱に
現代人の「なにか」が見えてくる。


土地に根ざしたたくさんの行事や祭りを
見事に捨ててきた現代人が
それでもこだわるおせち料理
日本人の「なにか」が見える。

さてその「なにか」はなにか。





門松も
注連飾りも
みごとに形骸化した。



意味の確認がしたい。


次の年を迎えるまでに
意味のある新年の迎え方を
まとめておきたいと思う。



ゴロゴロせざるを得なかった年始、
初仕事はスコーン作りだった。
帰省した長女と適当に作ったが
なかなかのルックスで満足。



そうそう
年賀状、年末にはやはり書けなかった。
いただいた賀状に
お返事を書くので精一杯の無礼を
また繰り返した。


がしかし、
12月中に
「今年もよろしく」と書く、そのことに
誰一人疑問をもたない不思議。


大化の改新のころから年賀の行事はあったという。


親戚や上司、目上の方々への挨拶まわりは
江戸時代から多くなり、
いつか玄関先で、記名だけするようになったのが
年賀状の起源だと聞いたが


元旦にまとめて配達するようになったのは
明治32年だというから、これは
古いか新しいか。




きわめて新しい習慣だと
私は思う。


だから書かなくてもいい、とは思わないが
「こんなに新しい習慣」なのに
きちんと年内に書き終えて
ツイタチに届く様に投函する人と

私のように
お返事がやっと、という人の
評価が分かれるのがおもしろい。


「ちゃんとした人」と
「ちゃんとしていない人」が
年賀状で区別されたり

書かないことに小さい罪悪感をもったり
反省したり



昨今は

今年をもって
年頭のご挨拶はやめさせていただきます
来年からは年賀状はだしません・・・という

立派な「年賀状引退のご挨拶」という新文化も際立つ。



わざわざ来年からは
年賀状を出さないけれど
それは意図してあいさつをやめるのですと
宣言する理由はなにか。


出さないことで安否を気遣うな、
だらしない奴だと思うな、という意味ではなかろうが、
不思議な傾向、いや一種の小さな流行に思えてならない。


自分の住所だけでなく
宛名まで印字で
指紋さえついていないハガキでも
ちゃんと投函した人は
やはり「きちんとした立派な社会人」らしい。


「あいさつ」に
大きな意味を見いだす日本人の
不可思議な側面がそこにはある。



だらしのない私は
ただただ反省するばかりである。


キーワードは
「あいさつ」と「他者からの評価」
興味は尽きない。



さて
年始早々、休養が必要ではあったものの
4日はイチオシモーニングの新年の初日。
少々気合いを入れてキモノで。


大好きな一枚に
赤い帯。
年齢を考えたら少々派手だったかもしれないが
そこはおめでたい場のこと、お許しをいただきたい。



新しい年を
さてどうすごそうか・・・
と考えていたら

素敵な言葉を聞いた。


「心はいつも 凪」。


日本ハムの選手の言葉。


我が心はいつも大嵐なので
ここはこの言葉をいただこうと思う。


書く内容はどうであれ

日常は
「凪」でありたい。


人に伝わる言葉で話をしたい。

つくづく思っている。




高価なおせち料理と同じ様に
年賀状も消える気配はない。
子供達の世代は、すでに年賀状なし!に抵抗ないようだが
さて
これから先、このおせち料理と年賀状はどうなるのだろうか。


新文化の受容と盛衰から目ははなせない。


今年もまた
考えるマダムこおろぎでいようと思う。