方丈記を読もう!


なにかと心境の変化の著しい筆者、マダムこおろぎ、目下方丈記に熱中。

鎌倉時代
こんな文章が生まれたのに

日本人の今の思想と哲学の
なんと貧しいことか。


だが

鴨長明とて、
方丈という狭い空間に身を置くまで、
もしかしたら
この、人間の存在の空しさと意味がわからなかったのかもしれない。


下に一部、添付する。
高校時代、暗唱させられたのは
私だけではあるまい。
みんな、これくらいは、諳んじて言えたような気がする。


「行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかも もと(本)の水にあらず。
淀(よど)みに浮ぶ うたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、
久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。」




今、心打つのは次のフレーズ。


「朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝ ならひ(習い)、
たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、
何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。
また知らず、假の宿り、誰(た)がために心をなやまし、何によりてか、
目を悦ばしむる。」




自分の老化だけでなく、
周囲の人間模様の大きな変化、とくに
母の世代の、老いの準備と形の多様性に触れると
心おだやかではいられない。


母はそれなりに豊にくらした人だが
私のような比類ない問題児を抱えたため、
財産をなくした。

けれど
なんだかんだといって
今朝も、カレイの煮付け、白菜と肉団子、葛きり入りのスープ、焼きタラコなどで
あたたかいご飯をたべ、気の強い娘と孫娘と、朝の話題を語り合える。


経済的な豊かさを捨てた時、小さい平安を得たのは事実。



これと真逆の人生を
実は最近、たくさん見ている。


うらやましいほどの贅を尽くした人たちが
予期せぬ不幸の晩年をすごしている。




日頃、人生は平等なのだと、言い続けている。
陰陽の通り、表裏の通り、かならず幸福と不幸のバランスがとれているのだと

だから、時にバチがあたることもあるのだと
あまりにヒドイ不幸に見舞われることもあった我が人生を、
ここまで生きてくるために
どうしても、そう思いたかった。




そして
今、
その通りだとおもわずにはいられない。




終わるのが人生だとすれば
ではどうすればいいか。



「その主人(あるじ)と住家と、無常を爭ふさま、
いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。
殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。
消えずといへども、夕べを待つことなし。 」




消えるのだからと

適当に生きては、やはりいけない。


消える命だからこそ

日々の小さな喜びを丹念にさがし、
表現し、伝えることが必要なのだと



方丈記を読み直し、
心沈んだあと
筆者、マダムこおろぎは
なんともいえない勇気を得たのでした。





一週間前
江差の、こんな小さなホテルで
楽しい朝ご飯をいただいた。


同行のDr.Sugimuraは、元気よくご飯の「おかわり」をしていました。
珈琲も美味しい朝でした。




研究調査は混沌とし、混乱、困惑を極める結果でしたが
そこを考えるのが醍醐味。


古い街並にこんなホテル。
こんどゆっくり滞在したいとおもいました。


と、ここで気づくのですが



文体に混乱。

「です・ます」調と「である」調の混在。


内容に合わせて口調が変ってしまいましたが
これも現実。



自分と自分の周囲だけしか見えないのが常。
だからこそ、古典を読もう!

人間がどう生きてきたか、
それを見れば、
自分の小ささがよくわかる。


とりあえず、まずは方丈記を読もう!


わが家の犬は
日々、毛を伸ばし、よごれ、犬種さえわからないくなり
いや、犬であるかどうかもわからなくなりつつある。

が、しかし、ゆく川の流れはしらず・・・
けしてもとのままではないのです。


犬の変化は、そのまま、飼い主の変化でもあることを
知るか知らないか、そこが大きな「差」になるに違いない。


よい一週間でありますように・・・。