続 続 京都でスタバ

少々風邪気味。
いや、ハウスダストと乾燥で
アレルギー発症か。
無理もない散らかりとホコリ。

日高先生を送る会に並んでいた
先生のご著書のコーナー。
こおろぎがこおろぎになった歴史と
重なります。


いったい
どんな時間の使い方だったのでしょうか。
たった一つの仕事でも
アー忙しい、忙しいと愚痴が出て
わずか一箇所の銀行へ行くのも
大仕事のような顔をして
日常の炊事程度で
ああ疲れたなどという
そんな私たちには


超人的なお仕事ぶりでした。

そんな中、しっかりと楽しい時間も確保され
お酒の時間も
お喋りの時間も
旅を楽しむ時間も


大いに謳歌された
その時間。


誰にとっても同じ長さの時間なのに。


どう使うか、

これは時間の使い方だけの問題ではないような気がします。


どう生きるか、

どう人とかかわるか、


これが根底にあるということが
最近わかりました。


築く人間関係でしか
人生は作り上げられない。
一人の人間の生きる道は
その人の能力だけで開かれるものでは
絶対にないということ、
そんな簡単なことが
突然分かったのです。


人間への深い興味と愛情、
イキモノへの関心と理解

これは本当に大切な指標で
生活の強い力。


日高先生には
その根本的な
大きな好奇心があったのだと思います。
優秀でも優秀でなくても
周囲の学生や仲間を
大切になさった。
その
優しさが
さらに周囲も巻き込んで
先生の人生をいっそう華やかにし、

そのことがまた
周囲を幸せにし、安心させていったのではないでしょうか。


イキモノはおもしろい。

人間は実におもしろい。

科学もまたおもしろく
歴史もさらにおもしろい。


こおろぎの仕事は
たぶん、「このあたり」にあるような気がしています。


あれこれ、仕事やら雑事やら家事に追われていますが
自分の時間は自分でやりくりする、
これが大人の特権です。


さ、
クシャミこらえて
お仕事お仕事。


コクボという若者のファッションについて
こおろぎセンセーはどんなご意見ですか?

と聞かれますが
いつも思うことです。

「知らないことはできない」


それだけです。

21歳まで
「知らない」ままきてしまったことを
彼自身が知らない限り
繰り返すだけです。


反省など簡単にはできない。
ころばなければ
ころんで痛みがわからなければ
残念ながら反省はできない。


朝青龍がそうだったじゃないですか。
何度注意されても
わからなかったから繰り返した。



ベルトをしないズボンのはき方は
アメリカの囚人たちの衣装だったと
いいます。
ベルトをはずさせる必要があった。
いろんな差別の意味合いもあって
アメリカでは厳しい罰則を用意しているところもある「着崩し方」。


そんなファッションを
カッコイイと取り入れた日本の
懐の広さがアダになったいい例です。



ジーンズが世界に広まったように
この「着崩し」が広まるかといえば
絶対にありえない。


ファッションの不思議と難しさはここにあります。


ドレッドヘアも
誰でも似合うものではなく
背景の肉体的特長も含めた文化と無関係に
取り入れることは
かくも危険だということです。

そして
実に恥ずかしいことなのです。
時に
無礼なことなのです。



大学の授業で必ず触れるのが
日本人の「雑食」性ですが、
それは服装にもいえる。

身長や肌の色と無関係に
自分たちの髪の色も化粧も
操作して
あれもこれも
取り入れる。
日本人は
なにもかもに貪欲で
まさに「雑食」なのです。



たまたま流行の「着崩し」た「草」のファッションを
そのまま「真」の場に持ち込んだ悲劇が
今回の
コクボ選手のファッションと
それに見合った「発言」と「態度」だった。


ある意味、気の毒なのです。
彼は
「知らなかった」。


そして

そんなことを「彼が知らない」ということを
周囲の大人たちが「知らなかった」ということがまた
悲劇だったのだと
こおろぎは思います。



真・行・草
でファッションも考えなければなりません。

本日、こおろぎは某所でそんな内容の
講演をさせていただきます。
イムリーな話題です。



それまでに
このクシャミ、おさまります様に・・・