キュウリからなにからなにまで・・の日

madam-cricket2008-06-13

なに?
先生、この写真なに?
ご覧のとおりです。
これが薔薇に見えますか?


と、今日は薔薇から離れよう・・・と思ったら
テレビで大野耕生(コーショーというお名前、字、違うかも・・・)
という、バラ栽培の貴公子が語っている。
フレグランスオブフレグランシスなんていう
すばらしいバラも映っていて

こおろぎ、うっかりテレビを観ると、
そこにも薔薇。

運命的にバラが続く。


でも今日はキュウリ。
先日、羽田空港に見送ってくれたみのりちゃんと食べた焼肉屋さんの一品。
美味しかったなあ。
アートしてるキュウリ。しかも美味しい。
金山寺味噌が大好きなこおろぎ、このお店のお味噌も気に入った。
たかがキュウリ、でも最高の一品。
やっぱり丁寧が1番。



朝は事務仕事をして宅配便を待って郵便局に行って
大急ぎでランチしてママを病院に連れて行って
戻ってあれこれしながら気がつけば夕方。満開のバラの写真を撮って
一呼吸した夕食の準備。来週の仕事を電話で打ち合わせながらキッチンで動いて
ため息つきながらDNAの本読んでたら
「連載の写真、どうします?」というKさんからメール。
ギョっ!マサカマサカ・・・頭の中で1日、曜日がずれていた。
大慌てで写真を選んで原稿を書いて送信。


今回はオムライスのお話。
函館新聞の暮らしのパレットは
こおろぎのエネルギーが集約されている連載だが、


今載っている「夫婦」というのは思い出しても泣きたくなる情景だった。


先週、泣きそうになりながら、冷静に思い出して書いた。
ちょっと記憶が怪しくなったご主人と連れ立ってあるく奥様の、
あの当惑した様子が今も目に浮かぶ。
それはそれはすばらしいファッションの美しいご夫妻だった。
経済的に豊かであることは一目で分かった。
チョイ悪おやじ風のストライプのスーツがよく似合う、素敵なご主人は
しかしすでに奥様とかみ合う会話は不可能な様子だった。

パレットの記事には書けなかったけれど
奥様は立ち上がらないご主人に対して
大声で怒鳴るように「お父さん、お父さん、早く、ちゃんと!」と
何度も何度も叫んだのです。
大声だしても、何度言っても、伝わらないのに。
思い出すたびに悲しくなる。


それでも電車を降りた二人は、なにか楽しいことがあったのか
顔を見合わせて笑った。
それを見て、切なくて、そしてなんだかうれしくもなって
このごろ涙もろいこおろぎは、そんなことで一人車内で涙をこぼしたりした。



だれにでも来る老後。どこからが「老」で、どこからが「後」なのか。



こおろぎ、すでに、その瞬間を経験した気がする。
目がやられ、シワも増え、たるんでよどんでだるんだるんで
記憶も怪しく、ガンコにもなり、夢も希望もボーっとしてきた。


しかし、まだ美しいキュウリに感動できる。
焼肉屋さんのキュウリに感動して
一眼レフでこんな写真を撮る勇気もある。
みのりちゃんと両手にどっさり荷物もって空港に到達して
カンパーイとビアジョッキーをあける元気もある。



まだまだいける。
かなりボロボロでガタガタになってはいるけれど
まだいける。
まだやれる。


やっとデオキシリボ核酸のあたりを上手に教えられるようになったわけで
やっとバラがなぜ美しいか、見えてきたんですもの



老いは怖い。
ママと病院に行くと、気持ちは沈む。
だけど、目をそらさず、自分にふりかかるかもしれない
様々な老いの形を直視しようと思う。
周囲を巻き込まない「老い」をどう迎えるか
そのために現実をしっかり見なければと思う。


なんてね、そうは言っても、なかなかママに優しくできず
優しくなれない自分が悲しくてね。


さ、
腹筋、背筋、鍛えましょ。
歩け歩け。車、できるだけやめましょう。


昨日は函館で色々な人に会った。
飛び歩き、講義もして、夜は来週のクラスの打ち合わせ。
札幌行きの最終のJRに飛び乗るとき、
青森から戻った短大のH先生とばったりお会いした。


毎週、私が授業に行くと、ご多忙な体なのに
H先生は必ず美味しい紅茶を入れて
お喋りしてくださる。昨日はお留守だった。
おば様を亡くされて青森にお帰りになっていた。
そこで私はおどろく話を事務の方から聞いた。
お母様も4月に亡くされたというのだ。


90歳を幾つもすぎたお母様のお話はとてもおもしろいので
私はお会いするごとに「お母様はお元気ですか?」とお聞きしてきた。
そのつどH先生は「ハイ、元気」とお答えくださっていたからだ。
4月からもずっと。
もちろん先週も、「お母様はお元気ですか?」と聞くと
「ハイ、元気」と確かに先生は答えてくださった。



先生はたまにしか来ない私に暗い話しはしたくなかったに違いない。
函館駅で遠くにH先生の姿を見たとき
私はその偶然に感謝した。
60代後半だろうか、お年を感じさせず美しく生きる先生は
目をまるくして
「今日、荒井先生にお会いできるなんて!」といつもの笑顔だった。


「荒井先生はイキがいいからいいわ!」といつもおっしゃる。
H先生の「イキのよさ」にはかなわないのに。


「先生、お母様、亡くされていたんですね」と申し上げると
「そうなの、4月のはじめね」とけろりとおっしゃった。


本当に素敵なお母様だったのだ。


H先生が国立大学を退官されたとき、お母様は60才をいくつかすぎた先生に
医大でも受けて医者になったらどお?」
と真顔でおっしゃったという。


H先生は若い日、医学部受験に上京するとき病気になって受験できず
翌年、お茶の水女子大の理学部に進まれ、食物学の大先生になられた。
だが、お母様はずっと医者になる道を諦めた娘の気持ちを
せつなく思われていたのだろうと想像に難くない。
親とはこんなものだ。私はこの先生のお母様の言葉が
とてもせつなくて
一度お見舞いしたいと思っていた。何かのエッセイにも書いたことがある。



6月なのに肌寒い函館、
小柄な先生がもっと小さく見え、
思わず先生を抱きしめた。
「先生、おつらかったですね」と申し上げると
「しかたないのよ」と私の腕の中で
細い先生はいつもの声でおっしゃった。


「泣かなくていいのよ、荒井先生は泣かなくていい・・」と
先生はシャンとして私の涙を指でピンとはねた。



函館短大にはすばらしい教授がいる。
ハンサムウーマンというのはこういう女性のことをいう。


金融ビジネスで大成功して
女よ、自立せよ、年収はコレだけ稼げ、こんなオトコを探せという
ご立派な本を書いた女性の著作を何冊かつづけて読んで
げんなりしていた私は


H先生の凛としたたたずまいに心底感動した。
いったい先生はおいくつなのだろう。


年を重ねるということは
怖くないのかもしれない。
ちゃんと生きていれば
怖くないのかもしれない。



どんな仕事であれ、
家事であれ
子育てであれ
なんであれ
こころ卑しくなく、
周囲に目を配り
自分の領域をわきまえて暮らしていれば
老いは怖くないのかもしれない。


H先生をタクシーに見送った。
お抱えのタクシー会社がちゃんとおむかえに来ていた。
動き出したタクシーの中で
H先生は「ゴメンね」と私に両手を合わせて頭をさげられ、
走り出した車の中でいつものように大きく手を振ってくださった。


涙があふれたけれど
「荒井先生は泣かなくていいの」という先生の声が耳の奥で響いて
こおろぎは
背中を伸ばして早足でホームに出た。


ちゃんと生きなきゃと思った昨日でした。

キュウリから始まって奇妙な日記になっちゃいました・・・。