日曜日の朝

madam-cricket2008-04-20


日本の若者のファッションがヨーロッパで注目されている。
ファッションと言っても、
東京コレクション系、ガールズコレクション系のファッションではなく
いわゆるオタク系だったり、ストリート系。
これはどういう現象なのだろうか。



もとより日本は外国を意識して意識して意識して成長してきた。
平城京の時代、日本の広き面積はどんな状態だったのか、
あんな都を作る必要などなかったはず。「外国」を意識しての
都だったと思えば納得がいく。平城京跡にトイレの痕跡がないのは
生活感のない「ディスプレイ」の象徴だったのではないか・・・


司馬遼太郎の古い対談を読んで
うなるばかり。


鹿鳴館をはじめ、多くの「洋風建築」も、
日本人のためではなく、「外国からの眼」のためだったわけで



つまりその・・・
さまざまな領域で大成功された方の豪華なご自宅が、
ときにベルサイユ宮殿みたいなインテリアになる理由もまた
同じ視点なのかもしれない。
金銀ギラギラの骨組みに金華山織みたいな布のソファ、
シャンデリアに赤いベルベットのカーテンには金のタッセル・・
胡蝶蘭と薔薇が好まれて陶器の犬と大きな鏡が必須アイテムになる理由は
積年の疑問だった。



成功者は「外国」を好むということか。
好まないまでも強く意識するということか。
古く平城京からか・・・と納得。


しかしかつては外国は中国であったけれど
近代日本においては「西洋」だけが外国なわけで
それも現代の西洋ではなく
一昔も、二昔も前の西洋こそ
権力と経済力の象徴にふさわしいらしい。
「古いもの」はよいことだ・・という意識も手伝ってのことか。
いや、かつての権力者の残したイメージには
「力の象徴」の確かな保証があるからか。




そんな中、チープで自由な現在日本の若者の「洋服」の楽しみ方が
西洋の若者に受け入れられることは
大きな意味がある。
今の若者が大人になったとき
大成功の末、自由に家を作れるようになっても
ベルサイユ風の大豪邸はもう出現しないのではないだろうか。
猫足のデッカイ椅子はもう登場しなくなるのではないだろうか。



日本の文化を探っていると
深いコンプレックスに出会う。
でも
なんでもそうだけれど
他者との比較と模倣あってこそ
守られてきたのが文化と伝統


生物の進化を見るように
日本の伝統文化を見ていきたい。
生物の個々の部位には「コンプレックス」などあるはずもないけれど
必要なものは残り、いや、残っているものには機能があり、
不要なものは消えていき、いや、消えていったものは役割を失ったのかもしれず


生活文化の中の行事や考え方の盛衰にも似ている。


あらあらあらっ、
日曜日の朝からこおろぎは
ドナルド・キーンを読んでしまった。
この後、山折哲雄先生の日本人論に手を伸ばす予定。
おやおやおやっ、
こおろぎ、どうしちゃったのかしら、
突如なにか書き始めた?
いや、どうってことないんです・・・山積みの家事労働から解放されたいのです。
一人暮らしのはずのキキが頻繁に登場し、
散らかし癖のある母娘で思い切り散らかし放題の家、
何とかしなきゃならないのに、
どうにも苦痛。現実逃避の転移行動としての
猛勉強。


どうであれ、
着る文化、食べる文化、住む文化の
過去の歴史を見ていても
全く見えなかった未来の文化が
突然、キラリと見えてきたかんじはたしか。


それは書物をひもといているときではなく
渋谷の雑踏を歩いていたときであり、
ススキノの若者を見ていたときであり
学生やシスターズを見ていたとき。


寺山修司の言うとおり、
書を捨てて街にでてみようか。
それで見える現実に
きっと未来が見える。
そのとき初めて歴史が理解できるような
そんな気がする・・・んですけど


朝からゴタゴタ言ってないで
覚悟して働きましょ。
いい1週間でありますように・・・。