うしろ姿

madam-cricket2007-12-05


長い1日だった。
朝からコロ介元気なし。頭打ったからかも。学校休む。
こおろぎは大仕事抱えているのでいつもより早く大学へ。

寒い朝
朝早くカブトムシからメール。
多田道太郎先生死去の知らせ。



阪神大震災の一ヶ月前、長いブランクを経て
私は広島で日高敏隆先生に再会した。初めてお会いしたのが弘前大学だったが、
再会は広島大学の講演だった。


それから数日後、私は偶然また日高先生にお会いする機会を得た。
農学部修士課程を終えたまま、取り損なった博士号を得るべく
大学に戻りたい旨を先生に伝えた。
花をアカデミックに学びたいという私の思いにじっと耳を傾けたあと
日高先生はカバンの中から新聞の切り抜きを私に差し出した。


なぜあの時日高先生はあの切抜きを持っていらしたのか。
運命があるとしたら、これが運命でなくてなんだろうか。



切り抜きの写真は私の知らないおじいさんだったが、
いかに彼が多才で興味深い仕事をしてきたかがつづられていた。
つい先日の記事だと日高先生はおっしゃった。
きっと私の話は多田先生の興味をひくだろうともおっしゃった。
「多田先生にすぐ会うといい」と一言。
電話しておくからすぐに会いに行って、今話した花についての構想を
そのまま伝えるように言われた。


その1週間後私は武庫川女子大学の生活美学研究所に多田道太郎先生を訪ねた。
細いおじいさんだった。だがヨージヤマモトの黒いデレッとしたスーツが妙に似合っていた。私の話を聞いて
「あんた、おもろいこと言わはるねえ」とポツンと一言。



私の受験生活はその夜から始まり、あの大震災の何日かあと、陸路も絶たれた西宮に広島から飛行機で私は入学試験を受けにいった。

社会人入学ではなく一般の大学院の試験だった。



私は生活美学研究所の一員となり、多田道太郎先生の門下となった。
衣食住すべてに知識と興味を広げられた実にすばらしい先生であった。
仏和辞典を編纂し、多くの著作で知られ、全集もある。


ある日、JRに直結するホテルの名前がターミナルホテルというのはおかしいとおもわないか?と聞かれた。
「ターミナルってのはなあ、終末、終わりっちゅうこっちゃ。あかんなあ・・・
グランヴィアってのはどうや?」
という会話があったような気がする。


そんな実力を惜しみなく振りまかれた学者でもあった。


ある日、紅茶にマドレーヌを添えてお出ししたら
プルーストやなあ、あんた、粋なことしはるなあ!」と愉快そうに笑われた。


そうだ、「失われた時を求めて」はマドレーヌに紅茶で始まるのだった。
日常のどんな会話も私には新鮮だった。


博士課程の必修授業で広島から西宮まで毎週通ったのは半年でその後は
行事や論文に関する何かのときだけお会いしたが
いつだって先生は愉快だった。

だが本来の目的は論文を書くことだったが
思うように進まず、ある寒い午後、ご相談したいと私は申し出た。
すると
「そやなあ・・・、今日は疲れてるからこの次にしてくれるか?」と
優しくおっしゃった。
多田先生は神様のようなオーラがあり、多くの熱烈なファンや門下生が集っていて普段は私のようなよそ者は簡単には近づけないのだがその日は不思議なことに誰もいなかった。


武庫川女子大の由緒ある甲子園会館の廊下を一人歩き始めた先生に
玄関までお送りします、と申し上げると
「悪いなあ・・ほな、たのもか?」と荷物を私に預けた。
玄関でコートを羽織る先生に私は帽子とカバンを手渡した。
「じゃ、きっと来月な、ゆっくりおもしろい話、聞かせてもらうから」
そうおっしゃって先生は振り向かずに歩いていかれた。
父の背中と重なって、その後ろ姿が見えなくなるまで
私は見送った。涙でほとんど見えなくなるまで見送った。


亡くなった父と同じ大正13年生まれ。多くの方が大先生と尊敬しても
私にはどうしても父とイメージが重なって、無礼な口をきいては
叱られた。
「あのなー、アンタ知らんやろけど、多田道太郎はええ仕事してきたんやで」と
冗談めかして笑い、私の無礼にいつもいらだちながらも
ヨソの畑から迷い込んだこおろぎを
大目に見て許してくださった。


だが、そうして玄関で見送ったわずか2週間後、私は先生がY女子短大に
移られたことを聞いて愕然とした。深いお考えがあってのことに違いない。


だが、私が捨てられたのは間違いない。私だけではなかったかもしれない。

書きかけの博士論文と
大学でのいくつもの問題や悩みを
先生、「この次、きっと」と約束してくださったのに。



その後、紆余曲折の末、再び日高敏隆先生が審査に加わってくださって
3年で終わるはずの博士課程を6年かけて私は学位をいただいた。


あの後姿を見送った日から一度も多田先生にはお会いする機会がなかった。
週刊誌の俳句評を拝見して、お元気だと知るのみであった。



私は捨てられた。だが腹は立たなかった。あの細い後姿は
私についた大きなウソを詫びているようにも思えるからだ。
本当はもうアンタの論文を見ることはできない・・・と言えずに
私の前から消えていったのだと思う。


アンタはおもろいなあ・・・


その服、ええなあ、どこでこおた?


今、なんかおもろい本読んでるか?


この紅茶うまいなあ・・



私の中の多田道太郎先生は
ただのおっちゃんだった。
どんなに立派な大先生だったとしても
私にはただのおっちゃんだった。


学位をとったとき、Y女子大に訪ねればよかった。
紅茶にマドレーヌ、また運べばよかった。


私にウソをつき、イイ歳をして生活美学研究所に迷い込んできた
こおろぎを捨てていった多田道太郎先生は、ご自分の誕生日に亡くなった。


あのなあ、あんた、粋っちゅうことがわかるか?

しぐさ論などでも著名な先生は粋について語ってくださったことがある。
誕生日に亡くなるなんて、先生、それが粋ってことですか・・・



今朝、その記事を読んだけれど涙などでなかった。
だが大学で、時々お会いする先生になぜか
経歴を聞かれた。あえて専門を1つ言うなら?と聞かれたとき
「生活美学です」と答えて突然
胸がいっぱいになった。


40代の大切な7年間を、私は子育ても主婦業もそっちのけで
生活美学研究所に費やした。
そのきっかけは、日高敏隆先生がたまたま持っていらした
新聞の切り抜きだった。

人生はおもしろい。
私は大きな師匠二人に支えられて、思いもかけない日々をすごした。



多田先生の句に
「ああそうか、そういうことかと膝を打ち」というのがある。
名句である。



先生、私は今大学で教えています。
先生から学んだたくさんのことを、ひとつづつ思い出しながら
「こんなことどうでもいいと思うでしょ、でもよく考えてみてよ・・」
が口癖の教師になりました。
紅茶にはマドレーヌ。私は生涯わすれません。
先生、大好きでした。


この静かな涙はきっと私の力になるに違いない。


写真は東京ミッドタウン。人がたくさんいたのに
静かな静かな光景だった。