融合

madam-cricket2006-06-09

 3週間以上闘病した気分。大声をださなければならない日があるのでなかなか完治しない。家もきたないので埃まみれも悪い。漢方でなんとか快方に向かっている。

 赤ワインに手が伸びるようになったということは復活の証しかも。

 日曜の夜、ケンケンがひどい発作を起こした。表情が変わり全身硬直。カブトと次女と3人でお茶している時だった。くるときが来たと思った。突然表情が変わった。心臓の発作。老衰で静かに眠るのなら我慢もしよう。だがこの苦しみようはなんだ?こんな終わり方があるものか?もがき苦しみ、私が抱きかかえるのも難しいほどの暴れようだった。大きな発作はかつてもあったがこんな苦しみではなかった。神様はいるのか、なぜこんなに苦しめる?乾いた涙が出る時間が続いた。そこに長女が帰ってきた。ケンケンはミキコを待っていたのだろうか。

 ミキコに渡すとケンケンはその肩に顔を乗せて大きく息を吐いた。「過呼吸よ、大丈夫、ケンケン大丈夫。」ミキコは冷静だった。幼かったミキコにはゲームもおもちゃも何も欲しいものを与えなかったので、近所に生まれた子犬は私から彼女に贈った最大のプレゼントだったと思う。2歳のミキコは大喜びだった。小さいケンケンをつれて近所のお店に買い物に行っては「うちの子なのよ」とみんなに見せて回った。その子犬が年老いて今、あの小さかったミキコの肩に頭をのせて全身を震わせている。「ミキコ、助けてよ」というと、彼女は冷静に言った。「心臓がくるしいんだから体を立てて歩く姿勢にしてやったらいいかも」「不整脈の時はじっとしているよりちょっと動いたほうが楽になることもあるらしい」あくまでも冷静。ゆっくり体の向きを変え、歩くこともできないケンケンをたたせようと試みた。

 するとどうだろう。苦しみぬいた30分がうそのようにケンケンの呼吸は静かになってきた。体を支えていると脚にもゆっくり力がもどってきた。目を見開き、よだれを流し、失禁し、全身を痙攣させていたケンケンがミキコにささえられて静かな呼吸をとりもどしたのだ。複雑な幼少期をすごした小さな女の子は今医学生になった。わずかな知識よりなにより冷静に現実を見るトレーニングは確実に積んでいる。ケンケンよかったね。ケンケンとぬいぐるみを取り合い、パンもおやつも取り合っていたあの小さいミキちゃんが助けてくれたね。またいつ発作が起こるかわからない。獣医さんにも覚悟しろと言われている。だが今回は救われた。苦しまなければいい。永遠に生きろとは言わない。ただ苦しんで欲しくない。それだけだ。

 その夜からケンケンは平常。いつもどおりわがまま三昧にもどった。私の魂はずっと試されている気がしている。

 そんな騒ぎのなかで私の仕事も復活しつつある。フードコーディネート論の授業で和洋折衷料理の起源や意味を話している。フュージョン料理というのもある。明治以降日本に入ってきた西洋料理をわが国がいかに和食として組み込んできたか。ハヤシライス、肉じゃが、オムライス、すきやき・・・おもしろいものはたくさんある。ライフスタイルも全くおなじ。日本風の応接セットというのがある。座高の低いソファーと低いリビングテーブル。洋室に続く和室等。

 いろいろな資料を集めながら花のデザインも同じだとあらためて考えた。そこで思い出した人がいる。十数年以上前、東京で仕事をし始めたころである。ある大企業のパーティーでワインと料理にあわせて花を生ける仕事があった。その休憩時間、会社のロビーで一人の外人に会った。同じ会社のヨーロッパ責任者だった。私が生けた花を見て「おもしろいね」というようなことを言った。たまたまこれまでの作品の写真を持っていたので見せるととてもおもしろがり、「あなたは西洋と日本をミックスできるデザイナーだ」と一言。数ある作品のいくつかは酷評された。そこまで言わなくてもいいだろうというほどひどい批判もされた。その結果の言葉だったので耳を疑いながら彼の話を聴いた。「西洋の花のマネは不要だよ」、という言葉も重かった。彼はその企業に入る前、世界屈指のホテルチェーンのアメリカとカナダの統括をしていた。その目で「何にも属さない花が生けられるのは財産だからつぶさないようにしなさい」というようなことを言った。エコール・ド・フルールを設立し、年に2度くらいヨーロッパに通っていた頃である。試行錯誤で苦しんでいたときだった。今、21周年目の学校をどう方向づけるかを考えなければならないとき、ふとあのときの彼の言葉が鮮明に浮かんできた。
仕事のあとぜひデザインの話をしたいということで食事に誘われ、大いに話がはずんだ・・・といっても、つたない英語とフランス語混じりなのであやしい会話ではあったが「あなたの方向は間違っていない。」ということを繰り返し彼は私に言った。その後、スイスの学校に来ないかという誘いも受けたが小さいミキコと母をかかえていた私にはできない決断だった。

 あああ、あのとき行ってたら今ごろヨーロッパ社交界にデビューしてたかも!古城のマダムになってたかも。ミキコにも違う人生があったかも!マキコは美しいハーフになっていたかも!ってのは飛躍しすぎか。私はその後カブトムシに出会い、それはそれはそれなりに大いに楽しい生活を手にいれたわけだけれど、あのときの彼のアドバイスはどれもこれも貴重だった。長いこと忘れていたが、教科書で「融合」ということばを見たとたん鮮やかに思い出した。

 そんな今朝、テレビでフラメンコの長嶺ヤスコ氏の踊りを見た。歌舞伎との融合、お経との融合、30年〜20年前の舞台だが芸術祭の大賞をとったというのは当然。鳥肌のたつ舞台だった。これよ、これ。私が目指すものはこれ。あれもいい、これもいい。それぞれのよさを熟知し、技術も学び、しかし最終的には「使える」「現実・実生活」にあった「等身大」の場面の演出。そしてそれが「ケ=日常」ならば「ハレ=非日常」のご提案。文化と伝統を正しく学んで伝え、かつ演出者の個性も発揮すること。

 突然何かが見えてきてしまった。ケンケンと過ごすアンニュイな時間にあせっていたが、必要なオフだったのかもしれない。こおろぎの3週間の不調と発熱は知恵熱だったのかもね・・・。