パーティー物語Ⅰ

 1985年の10月 札幌に花と料理の学校を開いた。6歳からいけばなに親しみ、9歳でフラワーデザインというものがあることを知り、小、中学校時代は布の花もリボンの花も紙の花も母につれられて習った。高校では茶華道部でまたいけばな。この華道部はおもしろくもなんともなく華道に幻滅してしまった。が、しかし大学時代、草月流の先生に出会って開眼。その後フラワーデザインスクールで3年、ホテルで2年、ヨーロッパに通うこと3年・・・と花の修行は途絶えることはなかったのだけれど、私は「お花が大好きなの」という人間ではない。学ぶことが好きだっただけでたまたま花だったと今でも思っている。もし母親が洋裁の先生だったら、今ごろは桂由美先生のようになってたかもしれないし、母がピアノの先生なら音楽家になっていたかも、建築家の娘ならその道に進んでいたかもしれない。アレルギーがひどいのでむしろ花は苦手。それでも40数年続けている理由は、意地でも根性でもなく、たまたま花がイヤではなかったという程度なのかもしれない。家にいつも花があり、花を活ける母がいて、教え上手な先生たちに出会ってきたのだと思う。

 家庭と師匠、これが教育の原点。あたりまえといえばそれまでだが、私の花修行はまさにそれだけだった。出会ってきた師匠たちについてはあらためて書くが、とにかく花と料理を組み合わせた小さな教室を作ったのが20年前。食通で食べることに人生をかけた父のもとで育った私。料理は若いころから趣味の1つでもあった。18歳からの自炊、料理学校、個人の先生等につきながら料理は日常のものになっていった。長女を出産した年の秋、教室はスタートした。10人入らない小さなマンションだったがそれは刺激的でドラマチックなスタートだった。教室のスタートはそのまま大人になった私の大どんでん返し人生のスタートでもあった。

 出る杭は思いきり打たれる。1度打たれると打ちたい人間はまだ出ていない杭までトンカチ振り上げて待っている。いやあ数々のオバサン軍団にひどいめにあったスタート時代でした。団体でいやがらせ電話。10分間隔のグループ、30分間隔のグループ、真夜中の担当者・・頭が下がるような努力家たちだった。花と料理をいっしょに教えるなど今では全く普通のことだが当時の札幌ではとんでもないことだったようだ。そのお話もまたべつの機会にゆずろう。あまりに壮絶で気絶する人がいるかもしれない。「女の攻撃性」はおもしろすぎるテーマ。教室開校10年後、再び大学院に戻った時の研究テーマの1つが「ヒトの雌の攻撃性」だった理由はここにある。

 おかげさまで日本脱出。といっても年に2〜3度、10日程度ずつヨーロッパに通うという暴挙に出た。長女がまだ1〜2歳ころから離婚するまで、師匠はヨーロッパにあり、という思いだった。料理と花のスクールに単発でせっせと通った私は必死だった。格安のホテルを現地で探し、花屋さんに飛び込みで修行させてもらったこともあった。ロンドンもパリも、当時の私には日本よりはるかに心地よい修行の場であった。

 あれこれ紆余曲折の末、気がつけば20年。お祝いの会を開くことになったのがこの春。場所が決ったのが5月。計画が進みだしたのが8月末、ドタバタは9月中旬。結果は10月10日、札幌パークホテルで105名の参加で素晴らしいひとときを迎えることができた。

 ついついスタート時の話が長くなったが、今回のパーティーで考えたことを何度かに分けて少しずつ書いておこうと思う。

 今回は場所決めについて。

 なんでもそうだが、「素敵」とか「おしゃれ」とかを基準にしては絶対にいけない。場所決定の決めては「空間」ではないと心得よ。その場所をしきる人間の善し悪しなのだ。今回の場所を決めた理由は担当者を全面的に信頼できたからだ。今春このホームページで私を見つけて講演の依頼をしてきたのがナイスガイのムッシュSであった。その講演会の運び方を見て私は迷わず彼のもとでの20周年パーティーを決意した。幸い仏滅の10月10日、庭に面した部屋が空いていた。もし彼がどこかの駅裏の越後屋旅館別館アネックスなんていう怪しいホテルの支配人だったとしても私はその怪しいアネックスでパーティーを開いたと思う。どんなに物理的空間が素敵でもダメ。パーティーは生きものだと心得よ。生きものには調教師が必要。動かす人間次第なのだ。結局人間の手、力が決める。当たり前のことをあらためて痛感した。

 ムッシュSとのパーティーづくりは楽しい作業だった。ただしムッシュはだんだん日々やつれていった・・・。こおろぎのわがままは炸裂しつづけたのだ・・・(つづく)。